REPORT特集

歴史の素人が西都原古墳群について本気で読み解いてみた

2026.10.23

古墳がお墓だということは、ご存知ですよね?けれど、西都原の台地に立つと、素朴な疑問が次々と浮かんできます。誰がなんのために築いたのか。そして、なぜ、この“台地”なのか。

(出典:西都はじめるPROJECT)

古墳は全国に約16万基以上あるとされています。そんな中、2018年に日本遺産に認定されたのが、宮崎の古墳の“景観”でした。宮崎県で初めての日本遺産です。その名前は「古代人のモニュメント-台地に絵を描く 南国宮崎の古墳景観-」。
調べていくと、いくつもの理由と偶然が重なっていることがわかります。
台地の成り立ちや、古代の人々の思い、そして1人の男の情熱。長い時間の中で重なってきた、その一つひとつを、素朴な疑問を手がかりに紐解いていきたいと思います。

見せるための“絵”

古墳とは、そもそも何だったのでしょうか。

(出典:西都はじめるPROJECT)

日本遺産のストーリーには、こう書かれています。
“当時の人々にとっての古墳とは、人物の地位や実力を大きさや形で表現した、いわば記念碑(モニュメント)でもありました”。
つまり古墳は「見せるもの」でもあった、と。その手がかりは、古墳が造られた時代背景にあります。

大きな墓を築くという時代背景

古墳が造られたのは、3世紀の中ごろから7世紀ごろ。その前の弥生時代には稲作が広まり、「ムラ」という単位で田んぼの経営を行っていた頃。ムラの首長(代表者)は交易を通じて力をつけていきます。古墳時代は、そうした各地の首長たちが、ヤマトの大王を中心に結びついた「首長連合」の時代だったとされます。法律にもとづいて国を治める仕組み(律令制)が整うのは、まだ先のこと。
つまり当時、首長の地位を保証してくれる法律は、まだない。だからこそ、首長の力は、人々にも、ほかの首長たちにも、目に見えるかたちで示す必要があったのでしょう。首長たちは、自らの力の証として、大きな墓を築こうとしたと考えられています。
Column : 専門家による豆知識①「古墳時代って?」
ちなみに弥生時代にも円墳や方墳はあって、弥生時代のものは「弥生墳丘墓」と呼び、「大きいほどスゴイ」のルールは弥生時代からのもの。よって、厳密には、古墳時代とは「前方後円墳が築造されていた期間」を指すのです。

古墳の形は絆の形

そして古墳の形にも、意味がありました。前方後円墳という鍵穴のような形は、ヤマト王権の大王が使い始めた形です。

「大仙陵古墳(大阪府堺市) 出典:国土地理院」

古墳時代は、各地の首長がヤマトの大王と政治的な連合を結び、墓の形や葬送の儀式を共有したことから生まれたと考えられています。大王と同じ鍵穴の形の墓を築くことは、その連合で力を認められた証でもあったのです。
さらに、古墳の大きさや形は、葬られた首長の権力や身分を表すものでした。単純に考えれば、それだけ大きな古墳を造らせる労働力を保有していたことの誇示にもなるわけですから。ここで注目したいのが台地の中程に並ぶ男狭穂塚(おさほづか)と女狭穂塚(めさほづか)です。どちらも5世紀前半、西都原の古墳時代が最も盛んだったころに築かれたと考えられています。女狭穂塚は九州最大の前方後円墳、男狭穂塚は日本最大の帆立貝形古墳とされています。

御陵墓(男狭穂塚・女狭穂塚)、この先は普段は立ち入れない

九州で最も大きな古墳が、この台地にある。それはつまり、ここに九州でも指折りの力を持つ首長がいたことを物語っています。県の研究者は、この大きさを「頂点に立つ南九州の代表権者の存在を示すのに相応しい規模」と読み解いています。しかも女狭穂塚は、ヤマトの大王の墓と同じ鍵穴の形。この地の勢力が、遠いヤマトとも深く結びついていたことをうかがわせます。
ただ、この二つの古墳の中に誰が眠っているのかは、考古学的にはわかっていません。そんなミステリアスな部分も、人々を惹きつける理由なのかもしれません。
Column : 専門家による豆知識②「前方後円墳というステータス」
前方後円墳には明確な規格があることから、設計図に類するものがあったと考えられます。つまり大王の承認がなければ、築造不能であったとされています。なので、「前方後円墳」という形自体がステータスだったのです。

生きる場所、眠る場所

西都の市街地から西都原へ車を走らせると、途中で急な坂にさしかかります。上りきった瞬間、空がぐっと広くなり、平らな台地が目の前に開ける。僕は西都に住み始めて4年目ですが、ここは何度通っても、気持ちが良い。
しかし、力を示し、受け継ぐための墓・古墳が、なぜこの台地の上に築かれたのでしょうか。

 

古墳の景観が残る地形

ここで、周辺の地形を確かめてみます。すると、このあたりの土地は三つの段になっていることがわかります。標高約10~15メートルほどの低地、約20〜30メートルの中間台地、そして約60〜80メートルの台地。西都原古墳群は最も高い台地にあります。

西都原へ続く石貫階段。中間台地から一気に駆け登る

では、古墳時代の人々は、どの段で暮らしていたのか。
県の資料によると、古墳がもっとも盛んに築かれた時代、人々が集落を営んでいたのは、古墳がある台地の一段下、中間台地に住んでいたと考えられています。そのさらに下の低地は田畑として使われ、今もその風景が続いています。

石貫階段から撮影。中間台地に広がる住宅地


田畑のある低地から中間台地へ続く道

その低地に流れる二級河川「一ツ瀬川」。米良の険しい山あいを抜けてきた流れは、杉安のあたりで急に視界が開け、平野へと広がっていきます。

米良の山々を縫うように流れる一ツ瀬川


杉安から見た一ツ瀬川。ここで平地に出て一気に視界が開ける

今でこそダムや堤防に守られていますが、記録に残る近代だけでも、この川はたびたび人々の暮らしをのみ込んできました。古墳時代の人々にとってもこの川は、田畑に恵みをもたらす一方で、恐ろしい存在だったのではないでしょうか。
そんな低地で田畑を耕し、中段で暮らし、そして一番上の段に古墳を築く。もちろん、中間台地や低地にも古墳はあり、きれいに区分されていたわけではありません。でも考えてみると、少し不思議な配置です。一番安全な場所に眠っていたのは、生きている人ではなく、亡くなった人だったのです。

祭りと祀り:残された人々の祈り

仏教が日本に伝わるのは6世紀のこと。それより前、古墳時代の人々は、山や海、大きな岩といった自然そのものに神を感じ、まつりを行っていたと考えられています。そして古墳もまた、ただ亡骸を納める場所ではありませんでした。
巨大なお墓といえば、エジプトのピラミッドを思い浮かべる人も多いかもしれません。ピラミッドは単に亡骸を納める場所ではなく、王の力を示すと同時に、王が来世でよみがえり、永遠に生きることを願って築かれたと言われています。では、西都原の人々は、古墳に何を託したのでしょうか。

見渡す限り、古墳

古墳は葬られた首長のためにさまざまな「まつり」が執り行われる場であったとも言われています。
今でも僕たちは、どこかで「ご先祖さまが見守ってくれている」と感じることがあります。
台地の上に眠る首長たちもまた、亡くなってからなお、暮らしを見守る存在だと信じられていたのではないか。実際、多くの研究者も、台地の縁に並ぶ祖先と首長の墓が、見上げる人々の日々の暮らしを見守っていた、と読み解いています。
王自身の永遠を願ったピラミッドに対して、古墳には、残された人々の明日を託す祈りを込めていたのかもしれません。

台地という“キャンバス”

ここまで、当たり前のように「台地」と書いてきました。しかしそもそも、この台地はいったい何なのでしょうか。
この3段の地形ができた理由をたどると、話は一気に数万年単位までさかのぼります。氷河期と温暖な時代が交互に訪れる時代。海岸線は前へ後ろへと動き、地殻変動により海や川がつくった平らな地面が持ち上げられていく。やがて川に削り残された部分が、段々の台地として姿を現しました。古代の人々が古墳を築いた西都原。その台地ができたのは約14万年前から8万年前だとされています。

一ツ瀬川河川敷から。平地の向こうに見える森(台地)が中間台地と西都原。よく見ると2段になっていることがわかる

人々が絵を描く、はるか前。そのキャンバスは大地が長い時間をかけてつくったものだったのです。
そう考えると、この“絵”の作者は、古代の人々だけではないのかもしれません。では、大地と古代の人々が描いたこの絵は、なぜ1400年以上たった今も、こうして残っているのでしょうか。

受け継がれてきた“絵”

最後の古墳が築かれてから、長い時間が流れました。その間、台地の古墳は、ただそこに残っていたわけではないようです。
室町時代には、すでに「山陵祭」や「御陵祭」と呼ばれる祭りがあったとされています。山陵も御陵も、天皇や皇族の墓を指す言葉です。つまり、有力な首長の墓であった古墳が、いつしか天皇家ゆかりの墓として大切にされるようになっていた、ということなのかもしれません。

古墳へ想いをよせる、1人の男の情熱

江戸時代の後半、1人の男が現れます。
西都・三宅で代々庄屋を務める家に生まれた児玉実満(こだま じつまん)は、やがて庄屋の役を辞め、神話の舞台を探して土地を調べることに没頭します。記紀(古事記・日本書紀を合わせた総称)に出てくる地名を、自分の暮らす土地に一つずつ重ね合わせていく。そして1825年、その成果を一冊の書にまとめました。
実満の情熱は、やがて遠くの人々にも届きます。京都から来た人は、実満の案内で男狭穂塚を訪れ、ニニギノミコトの墓として拝んだと書き残しています。遠く出雲でも、西都原をめぐって論が交わされるようになりました。
そして大正元年、この台地で、日本で初めての本格的な古墳の学術発掘調査が始まりました。神話の舞台であることを確かめたいという思いから始まったこの調査は、のちに、日本の古墳研究の出発点と呼ばれるようになります。

暮らす人々と古墳

一方で、この台地で暮らし、働く人たちもいました。昭和の時代の航空写真を見ると畑の中に、古墳だけが島のように残っています。

「1961~1969年の西都原航空写真 出典:国土地理院」

崩してしまったほうが、耕すには楽だったはずなのに。しかし江戸時代の記録には、塚を掘れば祟りがある、と書かれたものもあります。人々は古墳を、畏れとともに見つめていたのでしょう。やがて開発の波が押し寄せた昭和の時代には、古墳群の全域が史跡に指定され、守られることになります。

生活の中にある古墳
Column : 専門家による豆知識③「何が日本遺産として評価されたのか?」
古墳の数だけでいえば、近畿には2000基だの1000基だの、数多くの古墳を有する古墳群がありますが、街に埋もれています。周辺に人工物が少ないことが日本遺産「古代人のモニュメント-台地に絵を描く 南国宮崎の古墳景観-」の特徴です。

重なりあってできた“絵”

こうして守られてきた古墳のまわりには建物がほとんどありません。宮崎の古墳群は、周辺に人工物が少なく、古墳が造られた当時に近い景色が、今も残っているのです。日本遺産のストーリーは、この景観を「全国で唯一」と紹介しています。
「台地に絵を描く」。航空写真を見てみると、無数の小さな水玉のような古墳が散らばり、まるで台地に絵を描いたように見えます。しかし、ここまでたどってくると、この「古代人のモニュメント-台地に絵を描く 南国宮崎の古墳景観-」という名前は、目に見える一枚の絵のことだけを言っているのではないように思えてきます。

西都原考古博物館展望台から見た“絵”

自然が長い時間をかけてつくった台地に、古代の人々が、力と祈りを込めて古墳を築いた。その古墳に、のちの人々は神話を重ね、畏れ、敬いながら、それぞれの時代のやり方で受け継いできた。
自然と、時代と、人々の想い。そのどれか一つが欠けても、この景色は、今のかたちでは残っていなかったでしょう。何万年も前から、それらが重なりあい、響きあってできた奇跡の古墳群。それが、西都原なのだと思います。
この絵をつなぐリレーの次の走者は、もしかすると、この景色を見に訪れるあなた自身なのかもしれません。

「日本遺産フェスティバルin南国宮崎」開催

きたる2026年11月7日・8日、宮崎で「日本遺産フェスティバルin南国宮崎」が開かれます。宮崎県での開催は、今回が初めてです。
メイン会場のシーガイアコンベンションセンターには、各地の日本遺産がPRや体験のブースを出展します。トークセッションやミニシンポジウム、宮崎の食材を集めたグルメブースもあります。
西都原古墳群をはじめとする県内の古墳群は、サテライト会場になります。メイン会場と各サテライト会場のあいだは無料のシャトルバスで結ばれていて、古墳景観をめぐるバスツアーや、サテライト会場を回るスタンプラリーも行われます。
メイン会場で全国の日本遺産に触れて、シャトルバスで古墳の台地へ。全国の日本遺産と、この台地の“絵”に一度に出会える2日間です。
 

開催概要

  • 日時:2026年11月7日(土)9:30〜16:00/11月8日(日)10:00〜16:00

  • メイン会場:シーガイアコンベンションセンター(宮崎市山崎町浜山)

  • サテライト会場:西都原古墳群、生目古墳群、新田原古墳群、持田古墳群、蓮ヶ池横穴墓群 ほか

  • 入場料:無料

  • アクセス:無料シャトルバスあり(宮崎駅東口⇔シーガイア、シーガイア⇔各サテライト会場)

  • スタンプラリー:サテライト会場2か所以上でスタンプを集め、メイン会場で抽選に参加

  • 主催:文化庁、日本遺産連盟、日本遺産南国宮崎の古墳景観活用協議会、西都市、宮崎市、新富町、高鍋町、宮崎県

  • 問い合わせ:日本遺産南国宮崎の古墳景観活用協議会事務局 0983-43-3421

  • 公式サイト:https://miyazaki-kofun.jp/

※バスツアーの申し込み方法などの詳細は、公式サイトでご確認ください。

主な出典

公的機関(国・県・市・公立の博物館)

研究論文

報道・その他

この記事を書いた人

雄大

宮崎市出身。西都の築100年6DKの古民家で妻と娘の3人暮らし。

ローカルの人や場所を取材し、届ける仕事をしています。誰かの「当たり前」の中にあるおもしろさを見つけるのが好き。