こんにちは!ライターのまつです。
西都市の観光スポットといえば日本最大級の西都原古墳、語り継がれる日向神話の伝承地を巡る記紀の道、日向国主伊東氏の居城都於郡城などが有名です。
その他にも観光地の一つとして西都原の南に1キロほど行ったところに位置する日向国分寺跡・木喰五智館も皆さまに知って欲しい観光スポットの一つです。
今回はそんな日向国分寺跡(ひゅうがこくぶんじあと)・木喰五智館(もくじきごちかん)の魅力をご紹介していきますのでぜひ最後までご覧ください。
日向国分寺跡について
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、日向国国分寺の寺院跡にあたります。
その広さは東京ドームのグランド三面分にも及ぶ約4ヘクタールもあったそうです。金堂・講堂・塔などがそびえていたといわれています。現在は国の史跡に指定されています。
平安時代初期にまとめられた勅撰史書(ちょくせんししょ)「続日本記」の天平勝宝8(756)年12月20日の条に、越後・丹波をはじめ日向など26か国が記載されていることから国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられた741年から756年までの16年間に建立されたと考えられています。
その後明治4年(1871年)に廃寺となっています。廃寺当時の宗派は真言宗、山号は五智山、本尊は五智如来とあります。
木喰上人について
木喰五智館の仏像を造ったのは江戸時代後期の仏教行者・仏像彫刻家・歌人である木喰上人。木喰上人は個人名ではなく木喰戒という修行を受けた修行僧の呼び名とのことです。
56歳の1773年(安永2年)からの遊行僧として全国行脚に出たといいます。その後71歳の1788年(天明8年)に宮崎に入り、1797年(寛政9年)まで日向国分寺の住職なり、日向国分寺を中心にして日向各地を巡鍚(じゅんしゃく)し、木彫仏を残したそうです。
在職中の1791年に焼失した翌年から国分寺再建の中で『五智如来坐像』(ごちにょらいぞう)を完成させたとのことです。
日向国分寺跡・木喰五智館へ行ってきました
西都市街地から歩いて15分程度の宮崎県西都市三宅に位置する木喰五智館。今回は西都市街地から歩いて行ってみました。
看板を辿って日向国分寺跡へ向かいます。敷地横には駐車場もあるので車で来ても大丈夫です。
日向国分寺跡に着いてまず目に行くのがイチョウの巨木。ものすごい迫力があります。推定樹齢は600年。幹周は800㎝。樹高は20m。
木喰上人はこの樹に龕(仏像をおさめる厨子)を造り小さな像を祀って、その空洞の穴が樹皮でふさがれたとき、再びこの世に現れると告げたという伝説があるそうです。
木喰五智館の目の前にある日向国分寺跡。
いよいよ木喰五智館の中へ
木喰五智館前には境内を守る高さ2.5m相当の仁王像が立っています。
右側の像が阿形像(あぎょうぞう)
左側が吽形像(うんぎょうぞう)勇ましい表情に圧倒されてしまいます。
木喰五智館は、五智如来像を安置するためのもので、現在の「木喰五智館」は、平成8年(1996年)3月に新築されたものだそうです。
館内には木喰上人作の如来坐像が安置されています。楠の大木を用いた5体の仏像は『五智如来像』(ごちにょらいぞう)と呼ぶそうです。
宝生如来坐像(ほうしょうにょらいざぞう)
薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)
大日如来坐像(だいにちにょらいざぞう)
阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)
釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)の5躰です。
仏像の中でも国内最大級ということもあり、凄まじい迫力があります。
1体でも迫力があるのにそれが5体並んでいることでものすごい迫力を感じることができます。
近くで見ると造形の細かさがよく分かります。これは実際に生で見て欲しいです!こんなに大きい仏像をどうやって彫っていったのだろうと感慨深い気持ちになります。
木喰上人の仏像は丸みと微笑を特徴とするものがあるそうですが、日向に残る木喰仏は、まだ微笑を表現していないことが知られるとのことです。木喰上人は生涯で1000体以上の仏像を彫ったとのことで、その時々で表情などが変化していったのでしょうか。
日向国分寺跡・木喰五智館を訪れてみて
今回は日向国分寺跡・木喰五智館をご紹介しました。日向国分寺跡は国指定の史跡、木造五智如来坐像5躰は県指定の有形文化財に指定されている西都の歴史を感じられる貴重な場所と仏像です。
西都原から南に1kmくらいにあるので西都市に訪れた際はぜひ立ち寄ってこの迫力を体感してみて下さい。
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